NHK大河ドラマ「八重の桜」では、死んでいると思われた兄・山本覚馬と妹・八重ら山本家が感動の再開を京都の地で果たすこととなります。
会津での戦いの後、八重は会津での戦いで負った心の傷と怒りを抱えたまま、兄と再開します。
新しい国で会津の心意気をもちながらどう生きていくのか、兄・覚馬の導きによって西洋文学を学び始めます。
京都で苦しい生活を生き抜いた山本覚馬ゆかりの地についてご紹介します(*`・ω・)ゞ
目次
薩摩藩邸跡の碑(さつまはんていあとのひ)
(同志社大学HPより)
戊辰戦争のとき、山本覚馬が幽閉されていた薩摩藩邸があった場所です。
山本覚馬の幽閉だけでなく、幕末には桂小五郎と西郷隆盛により薩長同盟が締結された場所でもあります。
この後、八重の人生にとっても大変重要な場所になりますが、それはのちほど。
今は、同志社大学今出川キャンバスの西門前に、薩摩藩邸跡の碑はあります。
京都最初の中学校碑(きょうとさいしょのちゅうがっこうあと)
京都、日本を立て直すにはまず教育から!ということで、山本覚馬は槇村 正直(まきむらまさなお)と明治3年12月に日本初の中学校を開校した場所です。
舎密局跡(せいみきょくあと)
理化学の研究、教育を行った場所です。
山本覚馬は産業の発展も教育と並んで大切だと考えていて、外国人を講師として迎え入れてガラスや薬剤の国産化を進めました。
山本覚馬邸跡(やまもとかくまていあと)
山本覚馬の家もはずせない場所。
京都府顧問として働き始めた覚馬は、槇村 正直の家の隣に家を構えました。
ドラマでも、縁側で焼肉をしている槇村を覚馬邸から入っていってみつけるシーンがありました。
現在は、河原町御池交差点となっているため石碑などはありませんが、
覚馬や八重がそこで暮らしていたことを想像してみるのもいいかもしれません。
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