NHK大河ドラマ「八重の桜」では、わずか21歳という若さで江戸幕府第14代将軍となった徳川家茂(とくがわいえもち)が脚気衝心のために大阪城で亡くなってしまいます。さぁて、海の向こうからは外国が、国内ではさまざまな藩が政治の動かし方に疑問をもち、徳川家を揺さぶっているという状況の中で徳川の大黒柱である将軍がスッポーンと抜けた状態になってしまいます。これによって、ますます八重の故郷・会津の状況は苦しいものとなっていきます。
本当に、会津藩主・松平容保は時代の波にぶんぶん振り回されてかわいそう・・・(;=´З=)
この後、江戸幕府最大の決断・大政奉還(たいせいほうかん)の宣言者となった徳川家の最後の将軍、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)ゆかりの地についてご紹介します(*`・ω・)ゞ
目次
東本願寺(ひがしほんがんじ)
(東本願寺 公式サイトより)
将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の後見職になった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は、文久3年、家茂の上洛準備の為に徳川家と縁の深い東本願寺(ひがしほんがんじ)に入ります。
どうして東本願寺と徳川家の縁が深いのかというと、東本願寺の土地を寄進したのが江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)だからなんです。
→東本願寺ができるまでの経緯はこちら
東本願寺の白書院を宿舎とした一橋慶喜は、約3ヶ月滞在したそうです。ちなみに一橋慶喜が滞在した白書院(しらしょいん)は、東本願寺の中でも別格の造りで、襖絵や障壁画、天井に至る所までかなり凝った装飾がされています。
二条城(にじょうじょう)、若狭小浜藩邸跡(わかさおばまはんていあと)
その後、江戸幕府第15代将軍となった慶喜は、徳川将軍が京都で滞在するはずの二条城には滞在せず、すぐ近くにある若狭小浜藩邸(わかさおばまはんてい)を拠点にします。盟友・松平春嶽とたびたび大政奉還について語り明かし、一度こうと決めたら譲らない慶喜を松平春嶽は剛情公(ごうじょうこう)と揶揄したそうです。
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